さて、西表島の現在の状況を少しお知らせしたところで話を戻します。
移住にいたってからですが、一年目は「民宿ヒナイ館」と言うところでお世話になりました。今はもう閉館してしまいました。
民宿なので色々なことをやりました。
皿洗いもやれば、草刈り、民宿の補修工事をやって色々な体験をしました。
この民宿が特別なのは「与那国馬」がいたことでしょうか。
この馬の世話をしていましたね。
今でも、そのこと島の人に言われます。
さて今でこそ、カヌーだとかを使ったツアーがありますが、その頃はこの島を訪れるのは団体の通過型のお客さんか、ダイバーが大半でした。
それと春には大学生の探検部と言った人たちがキスリング(カーキ色のザック)を背負っては、よく歩いていましたね。
島では、この人達をカニ族と呼んでいました。
キスリングは今のザックと違って横に広いものでした。
そこからの印象で、カニ族となったのでしょう。
さて、この民宿の特徴的なのは、何でも自分で作ってしまうと言う器用な、民宿のご主人だったということでしょう。
というよりも、この島で一番驚いたのは、誰もがそんな感じだと言うことです。
つまり、大工兼漁師みたいな人ばかりでした。
農業をやっていても船をもって、釣りに行っては魚を獲ってきて食卓へ…。といった具合で、自給的な暮らしがありました。
もちろん現代でもそのような暮らし方の方はいらっしゃるでしょう。
何せ、テレビの番組がNHKしか映らない時代でした。
民放放送がないばかりか、その時代は衛星放送すらない時代だったと思います。
当然携帯電話もないし、インターネットなどもない時代です。
1980年代のころでしょう。
当然、ガイドなどと言う商売自体が日本と言う国には、無い頃です。
確かに、ダイビングはガイド業が成り立っていました。
その頃は、空前のダイビングブームもあって、ダイビング人口もものすごく多かったと思います。
そんなことで沖縄やこの西表島は、ダイバーにとってはあこがれの地でした。
もちろん今でもダイバーのあこがれの地であることは間違いないでしょう。
そんな西表島で暮らして数年。
この地域ならば、「ガイド」としての生業が成立すると考え始めました。
かつて、高校時代に山に取りつかれるように通っていた高校2年生の頃、父親に「高校を退学して、山小屋に就職したい」と言って一言で却下されたことがありました。
きっとその頃から今の人生は決まっていたようにも思います。
しかし。
ガイドとは何を提供してお金をいただくのか?
その力量が自分にあるのか?
何よりもガイドと言うものを利用してくれるお客さんがいるのか?
色々な不安がよぎりながらも、ガイドと言う商売を始めるようになりました。
つづく(?)
中神(文)